薫葉豊輝の推理小説論3
となると、謎を仕掛ける犯罪者の方の知性が問われます。
何故なら、仕掛けられた謎の方が、弱小規模のものであるなら、解き手の知性もさほど必要とされないからです。
そう、ここが推理小説の難しいところ。
謎の方の難易度を上げることは即ち、解き手。
いや、作り手の勉強量の方も上げねばなりません。
ですから、推理小説の謎と謎解きという公式を考え出す書き手の知性。これも問われます。
だからでしょうか。推理小説の書き手には識者、専門職の方、学者等が多く、現代では、専門技術を駆使した謎解きが、多くの作品の中にて描かれています。
しかし、ここで誤認してはならないのが、専門が行き過ぎても、面白い推理小説には成り得ない。それも見極める目が必要となってきます。
例えば横溝正史という作家がいますが、すでに亡き大家でありながら、現代の推理作家が未だ乗り越えられない巨人であり続けられるのは、彼の作品には、あらゆる要素が詰められているからでしょう。
そして、推理小説の公式。
とにかく完璧に近いフォルムを持っているからだと思うのですが。
横溝正史の小説を読むと、専門知識だけで謎を解く作品にはない抜群の論理と、物語としての面白さ。
そして、結末における意外性。それに付随してくる感激。それらを同時に味わえます。
そう、この器に載る謎と論理の関係性。
その名料理人の代表格の一人。それが横溝正史ではないでしょうか?
では、器にて謎を昇華させてくれた材料である論理。
そう、上に載せるパーツは主にその二品ですが、その二品によって生み出される完成された料理の形は、書き手の力量によって、千差万別。出来の良し悪しが開きます。
では、質の高い謎と、質の低い謎との差は、どこで分かれるのでしょうか?
続く。